東日本の人なら、3月11日午後2時46分に何処にいたかをはっきりと覚えているはず。
私も池袋で自宅に戻る為に西武池袋線の出発を座って待っていた。午後の時間なので社内は立っている人がちらほらだった。電車のドアーが閉まろうとしたその直前にグラグラと来た。随分大きく、そして長く感じたが、後で聞いたら3分以上あったそうだ。三つの震源が誘発して次々にグラグラとさせた訳だ。
あの大きさ・時間からして尋常ではないことは分かった。津波警報が出たことも程なく隣の人が見ていた携帯ワンセグで分かった。津波も最初は3m程度だったが、そのうちに大津波警報になり10mになった。
私の故郷は岩手県宮古市。家は沿岸堤防から500mくらいだが、無人の自宅でも床下浸水で収まったのは幸運であった。
我が郷里は津波の多発遅滞。それは地形から奥に行くに従ってくさび形になっている所が多く、海上では仮に5mでも浅瀬や地上に上陸してくるとその何倍にも駆け上がってくるというなんとも災害と隣り合わせの地帯なのだ。
宮古市は人口約60,000人。それが一瞬で行方不明者も含め約1,000名の命が失われた。その年齢をみると60歳以上が多い。私の生家のある町でも10名が無くなった。でもその死亡原因や死亡場所は発表では不明だ。湾の周りには5〜8m位の防潮堤があり、地元で聞いて見ると前のチリ地震の時も大丈夫だったからという油断が誰にもあったようだ。中にはすぐ高台に非難するようにと防災無線が叫んでいるのに、堤防の上に見物の為に登った人もいたとか。
時間も午後で若い人は職場に、老人は家庭で、子ども達はまだ学校という時間帯だ。ラジオよりTVの情報が伝わりやすいのだが、ここで大切なことはTV情報が停電の為切断してしまったことだ。ワンセグに誰でも慣れている訳ではない。市の防災スピーカーも窓を閉めていると聞こえない。
地震があってから第1波が来るまで40分くらいあったそうだ。
地震から津波まで結構時間があったので、その間に家に大事な物を取りの帰った人も多いようだ。津波は第1波のあと港の底が見えるまでに引いた。その時間に家に戻った人も被害にあった。津波は全部で8回ほど寄せては戻し、2時間以上続いた。
ここで被害の程度を見ていると、1mでも基礎を上げて建物を建てた家でほとんど被害に会わなかったという家もあった。家を建てた地形にもよるようだ。
宮古の港湾の埠頭にはチップにする為に多数の丸太が野積にされていた。それが堤防を軽く越えた津波によって原木が一気に町中に流れ込んだ。それが被害を大きくしたようだ。
ここから分かることは「まさかは本当に来る!」事を知ったこと。
逃げ出す際には「預金通帳、印鑑、現金、キャッシュカード、金庫の鍵、持病の薬、携帯電話、他に事業者は事業用のデータ類等、懐中電灯や簡易食料などの防災用品」を常日頃からバラバラにせずに持ち出し可能にしておくこと。
もっと大切なことは大きな地震があったら先ず津波が来ると覚え高台に逃げること。命が一番と銘ずべし。
こうした天災を受けると、その復旧資金は手持ち資金が主となる。借入をすると二重ローンになり、事業や家計が継続できなくなる可能性がある。保険も掛けている人は1割程度だそうだ。私の身の回りの人で、地震保険を掛けている人は稀なような気がする。それは保険料が高い割に、保証が最大5割までとしているところに所以がありそうだ。事業者で被災した人は厳しい。再開も困難なことが多そうだ。
これからの被災市街のマスタープランをどう描くか。同じところに街区を作る愚をしてはいけまい。これからは少なくとも海抜30m以上の山間部を切り開いて宅地の開発をする必要がある。従来平地は工場や農林・水産業、商業などとし、学校・病院・介護施設等は丘の上に建設することになろう。但し、注意すべきは盛り土を行った土地は地すべりが起き易い。
苦難はこれからだが、子孫の為にしなければと覚悟をする。